解散から復活したうるま市石川ひまわりキッズシアターの自主公演を開催したい!

解散から復活した劇団ひまわりキッズの自主公演をしたい!
プロジェクトオーナー

兼島 拓也(石川ひまわりキッズシアター脚本・演出)

108%

  • 現在
  • ¥323,000
  • 目標金額
  • ¥300,000
  • 購入口数
  • 49口
  • 残り日数
  • 終了

新垣ハルさんの講話を聴いて

2017年08月26日 11:00

脚本・演出 兼島拓也の雑記

先日、ひまわりキッズシアターの子どもたちを連れて、新垣ハルさんという方のお宅に訪問しました。それは、宮森小米軍機墜落事故に関するお話を聴くためです。そのお話の内容やそれを語るハルさんの姿、それを聴いた私自身の感じたことを、ここに記そうと思います。

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【語ってくれた新垣ハルさん。とても溌剌としてお元気で、91歳と聞いて驚きました】

ハルさんの一人息子・あきらさんは、小学校2年生の頃、宮森小米軍機墜落事故の被害にあい、全身に火傷を負いました。なんとか一命は取り留め、その後は回復し大学まで進学したものの、体調の悪化により亡くなってしまった。
事故当日、どのような様子で、どのように行動し、なにを感じたのか。事故後にあきらさんやハルさん自身に、あるいは二人の生活や関係性にどのような変化が起きたのか。それらのことを、ハルさんに語ってもらいました。
 
あきらさんはハルさんの一人息子で、事故当時ふたりは、ハルさんの母親やお姉さん、お姉さんの子どもたちと一緒に暮らしていたそうです。
ハルさんは米軍基地内でメイドとして雇われていて、事故があったあの日(1959年6月30日)も、基地内で仕事をしていました。
事故の報を受け、何が起こったのかまったくわからない混乱状態のさなか小学校に行くも、焼け落ちた校舎の周辺を探してもあきらさんは見つけられず、とても慌てたそう。誰かから「病院にいる」という情報を聞き急いで病院へと向かうと、そこで目にしたのは、火傷の影響で身体が曲がり縮こまり、力なく横たわっているあきらさんの姿でした。
その姿を見たハルさんは「自分の子どもと思えなかった」と言います。それほどまでに、火傷の被害が大きかったのです。
 
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【あきらさんの遺影や、陸上競技で獲得したメダルなどを見せてくれました】

数日間の昏睡状態の後、あきらさんはようやく意識を回復させます。でも、力なく、ハルさんの声掛けにもかすかに反応するかしないか、というレベルだったといいます。
あきらさんは全身の皮膚の50%以上が火傷の被害に遭って、入院した病室は「とても寒かった」とハルさんは回想します。夏場(6月)であるにもかかわらず、病室の中は震えるほどだったそうです。
そんななかであきらさんは眠り、時折、氷水の中に身体を浸すなどの治療が行われたそうです。
 
入院は長期にわたり、その間のあきらさんの様子は、覇気が感じられないものだったと言います。無理もないことだと思いました。
事故の影響で自分の心身に起きたことへのショック、恐怖、混乱、その他。あきらさんのなかで蠢いているそれらに、共感したり同情したりすることなどわたしにはできません。それは想像を絶することだからです。
 
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【熱心にメモを取りながら、ハルさんの話に耳を傾けるキッズたち】

ハルさんがする入院時の話のなかで、印象的なエピソードがありました。
ある日、ハルさんが病室にお見舞いに来たとき、何気なく自分の持っていたカバンをあきらさんが横になっているベッドの枕元に置いたのだそうです。
いつのまにかバッグが倒れ、その拍子に中から手鏡が出てきてしまっていたのですが、ハルさんははじめそのことに気づきませんでした。
ふとベッドに目をやると、あきらさんが、鏡面をじっと見つめていたそうです。じっと。
大火傷を負ったあきらさんの顔や身体の皮膚の多くが、ケロイド(火傷痕の膨らみのようなもの)に覆われていました。入院中寝たきりであったあきらさんは、腫れあがった自らの相貌を知らずにいたのです。
そして、ふと枕元にあった手鏡を覗くと、そこには、まったく別物になってしまった自分の顔が映っていた。
あきらさんは絶句し、鏡を伏せ、それからしばらくはハルさんの顔すらも見ようとしなかったそうです。
不用意に枕元にバッグを置いたこと、そのことを悔やんでいるとハルさんは言いました。
このエピソードは、話を聴いているわたしの心を強く打撃し、その後わたしの心はしばらくふるえ続けていました。じぶんのなかに発生した想いを言葉にしようと試みましたが、なんどやってもそれはうまくいきません。
「悲しみ」とも「悔しさ」ともどこか違う。「可哀想」とも「無念」とも言い切れない。うまく言語化できない、うまく処理できない。でも、だからこそ、このエピソードがわたしのなかに強く残り続けているのかと思っています。
 
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【この会をコーディネートしてくれた久高さん(左)。事故の体験者でもあり、補足的な説明もしてくれました】

事故の前のあきらさんは、活発で友人も多く、当日も好きな歌を歌いながら登校していったといいます。
少しだけ遠くを見ながら、「いつも『フクちゃ〜んフクちゃ〜ん』って歌ってたよ。なんの歌かね?」と笑うハルさん。そのときのハルさんの目には、飛び跳ねながら元気に日常を送る、幼き日のあきらさんが見えていたのかもしれません。
 
そんな活発なあきらさんから、事故は、たくさんのものを奪っていきました。
たとえば、自らの顔や身体中に広がるケロイドを気にして、動けるようになっても、あきらさんは外出することを嫌がったといいます。
「恥ずかしい」と拒むあきらさんに、ハルさんは「あなたが悪いことをしたわけじゃないから、恥ずかしがらないでいい」と諭します。それでも、なかなかあきらさんの心は開かれず、どうしても外出をしないといけない時は、どんなに暑くても長袖を着用して肌を隠すようにしていたそうです。
 
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【ご自宅のなかに飾られている写真などを説明するハルさんと、それを聴いているキッズたち】

それでも、あきらさんは、生き生きとした日常を少しずつ取り戻していきます。
だんだんと友人と交流することも増えてきて、陸上競技をはじめます。特に短距離でその才能を発揮して中学・高校と大会でも好成績を残すようになります。
将来は体育の先生になりたいと、琉球大学に進学し、陸上競技も継続して活発に取り組んでいました。
そんなあきらさんを、ハルさんは複雑な想いで見つめていたと言います。
あきらさんは、お医者さんから、心臓などへの負担の大きさなどから、激しい運度を行うことを制限されていたそうです。ハルさんも当初は運動を控えるようあきらさんに言っていたのですが、「陸上が生きがいだからやらせて欲しい」と懇願され、それ以降はもう制限することはできなかったといいます。
 
ハルさんに「ふたりの生活で楽しかった想い出は何ですか?」と訊くと、「あきらが(陸上選手として)活躍することが、私も『生きがい』でしたよ」と答えてくれました。
生き生きと陸上に取り組むあきらさんの姿に、次第にハルさん自身の生きがいを重ねていたのでした。
でも、陸上に打ち込めば打ち込むほど、つまり「生きがい」に溢れた日常を過ごすほど、それと反比例するようにして、あきらさんの身体には大きな負担がのしかかっていたということでもあります。
この残酷さを目の前にして、わたしはじぶんの拳が強く握られていることに気づきました。
 
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【写真のなかのあきらさんは、どのような想いでわたしたちを見つめているのでしょうか】

大学在学中、あきらさんの体調が悪化し、入院することになりました。
そのことを語るときのハルさんの姿を、わたしはじっと見つめていました。
陸上をさせることで息子が「生きがい」をもって日常を過ごしている。でも一方で、そのことで息子の「日常」を縮めてしまう恐れもある。そのような状況のなかで、もしわたしがハルさんであったなら、なにを思っただろう。
やっぱり陸上をするのを止めておくべきだったのか。
それとも、本人の「生きがい」を尊重したのだからこれでよかったと考えるべきなのか。
どちらが「正解」なのだろうか。
いや。むしろどちらも「正解」であり、どちらも「正解」ではなかったのだろう。どちらを選んだとしても、かならず葛藤は生じるし、後悔をするだろう。
それよりも、このような状況に陥いってしまったこと自体を恨むべきだろうか。しかし、恨んだところで解決する問題でもないし、かといって簡単に受け入れられる問題でもない。
じぶんの視線の先にいるこの人は、このような苦しみのなかを生き抜いてきた人なんだな、とわたしは語るハルさんを見ながら考えていました。
 
あきらさんは入院後も、ハルさんに黙って学校に通っていたそうです。時折ハルさんに見つかって「学校と身体とどっちが大事なの」と諌められても、また隠れて通学していたとのこと。あきらさんは、やっと見つけた自分らしい「日常」を、文字どおり必死に引き延ばそうとしていたのだと思います。
でも、一方で、その「日常」の終わりが近いということも、おそらく感じていたのだと思います。そのころのあきらさんはよく、ハルさんに対して「兄弟つくればよかったのに」などと言うことがあったそうです。
自分が死んだら母親がひとりになってしまう、ということを案じての言葉だったとハルさんは語りました。
「自分の身体じゃなくて母親の心配するのか?」と返しながら、「もう死ぬのをわかっていたんだはず」と息子が死期を感じていることを悟ったのだそうです。
 
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【とても活発なハルさんは、たくさんの表彰を受けています。これ以外にも賞状やメダルがたくさん】

あきらさんに負けず、ハルさんもとても活発なパーソナリティであったそうです。91歳になっても元気そうな姿を見ると、容易に想像できることではありましたが。
あきらさんが亡くなった後も、ハルさんは婦人会の活動などに積極的に参加し、多くの表彰などを受けました。その賞状やメダルなどが、ご自宅にたくさん飾られていました。
婦人会の活動で知り合った方々と世間話をしているとき、よく、「孫」の話題になったのだそうです。
ハルさんは、その話を聴きながら、孫をもつことができない事実に寂しさを覚えると同時に、「もし事故がなかったら、、、」と考えていたのだそうです。
もしいま生きていたら、あきらはどんな仕事をしていたかな。どんなお嫁さんを連れてきて、子どもはどんな子だろうか。そんなことを考えながら、また、ふいに「私があきらの子どもですよ」と誰かが現れないかな、なんて夢想したりもしていたそうです。
 
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【ハルさんが描いた花の絵。淡い色を纏いながらもまっすぐ空に伸びていこうとする姿は、ハルさんやあきらさんのよう】

あきらさんが亡くなって長い年月が経っても、「昨日のことみたいだけどね」と、あきらさんとの日々を語るハルさん。あきらさんが亡くなった後のハルさんの人生には、もう生きていないあきらさんの存在が、深く刻み込まれています。ハルさんの語りを聴きながら、そのことを強く感じました。
でも、あの事故によってできた傷跡もまた、ハルさんの人生には強く刻まれています。
語りのなかでハルさんは、事故当日の焼けて縮んだあきらさんの姿を見たことと、あきらさんがケロイドの影響などで塞ぎ込んでしまったことについて、何度もなんども言及しました。その語調は、なんど反復してもその強さが低減することなく、またその度に声が震えていました。
それを語っているハルさんのなかには、その光景が、そのときの世界が、見えていたのだと思います。
幾度となく回帰して、とおい記憶としてではなく、すぐ目の前にある現実として、出現してきていたのだと思います。
 
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【取材を受けているキッズたち。ハルさんの語りを聴き、なにを感じたのでしょうか】

わたしたちは、ハルさんが見ていたその強烈な景色を、実際に見ることはできません。でも、その景色に、その時代に、その世界に取り攫われてしまっているハルさんの姿は、直に見ることができます。
そこからなにかを派生させて考えていく想像力こそが、わたしたち戦争や宮森の事故を知らない世代が持ち得る唯一の武器だと思います。
この「想像力」は、決して錆びつかせてはいけないものです。常に磨き続けていかなければならないものです。
あきらさんやハルさんの人生を呑み込んだ、個人の力が及ばない大きな力。「想像力」は、その力に対峙するためのものとしてはあまりにも微力だと感じられますが、それでもわたしたちは、その「武器」だけは決して捨ててはいけないのです。

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【終了後ハルさんと記念撮影。ハルさんの想いを、今後の活動にどう生かしていくべきか。キッズたちと一緒に考えていきます】