解散から復活したうるま市石川ひまわりキッズシアターの自主公演を開催したい!

解散から復活した劇団ひまわりキッズの自主公演をしたい!
プロジェクトオーナー

兼島 拓也(石川ひまわりキッズシアター脚本・演出)

イベント 文化・芸術

107%

  • 現在
  • ¥323,000
  • 目標金額
  • ¥300,000
  • 購入口数
  • 49口
  • 残り日数
  • 終了
このプロジェクトは2017年9月26日 (火)までに、
300,000円以上集まった場合に成立となります。
選択中カテゴリー

「私たちの空」解説風エッセイ(1、時制について)

2017年07月07日 15:29

脚本・演出 兼島拓也の雑記

伊波小学校での公演、「私たちの空」について、解説(を装ったエッセイ)を書きます。
できればお読みいただきたいと思います。
とくに、「時制」についてクドく述べています。

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【声出し中のメンバーたち。この直後、本番がはじまります】

この劇の主題は、大げさに言うと、「決定論的世界からの(選択による)脱出」です。
まず、この劇(特に小学生の女の子がおしゃべりをしている場面)は、複数の時制が混在しています。
過去・現在・未来が同時に存在し、登場人物はそのすべての時制において同時に存在しています。

たとえば女の子が、客席に向かって話しかけているとき、それは《現在》においてです。彼女の発話は、単にモノローグではなく、明確に観客に話しかける行為です。
《現在》を生きている生身の受け手(=観客)の存在を前提としていて、そのような話し方をしています。

ただその発話内容は、「これから飛行機が落ちてきます」とか「わたしたちは死んでしまいます」とか、つまり《未来》の話です。
ですがこのとき、女の子は、“死んでしまった人”として発話しています。
すでに飛行機の墜落や自らの死を経験した者の立場から、《過去》を回想するようにして「これから飛行機が落ちてくる」とか「これから死んでしまう」と述べます。これらの発話内容は、本来的に既知の出来事=《過去》としてしか成立しないもののはずです。

このように、彼女が話すとき、そこは過去・現在・未来が同時に存在する複雑な場所となります。

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【少女たちが遊ぶシーン。このときの舞台は、過去・現在・未来の時制が同時に存在しています】

わたしたちはふつう、過去のことについては知ることができますが(というより、すでに見聞きして知っているものを《過去》といいます)、《未来》についての知識や経験をもつことはできません。
ですが、彼女たちのいる世界(=舞台の上)には、すでに《未来》が存在しています。
「《未来》がすでに存在している」と言うとき、それは「決定論的」な《未来》です。「運命的」と言い換えてもいいかもしれません。

決定論的な世界においては、本当の意味での「自由」はありません。いくら自分の意志において行為をしても、それはあらかじめ決められた帰結にしか導かれません。
そこでは、「意志」や「選択」は意味をもたないのです。

作中、女の子たちは、自分たちが死ぬことがわかっているのに、それを避けようとしません。
“その時”が来るのを、ただただ待っているばかりです。
これは、彼女たちが決定論的な世界(=舞台の上)に閉じ込められているからです。

あらかじめ決められた《未来》、しかもそれは飛行機が墜落して陰惨な死を迎えるという《未来》。その到来に抗うことができない、その無力さと悲しみ。そのような感情(疑似体験)の発生を企図することこそが、事故の記録をそのまま伝えるのではなく、フィクションとして伝えることの意義だと考えています。

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【公演終了後のメンバーたち。なんていい表情!!】

ただし、そのような感情の発生がゴールではありません。むしろスタート地点の設定に過ぎません。

フィクションの内部にいる者(登場人物)は、決定論的な世界に囚われているゆえ、「無力さと悲しみ」の道を自ら逸れることができません。
しかし、フィクションの外部にいる者なら、つまり決定論的世界から逃れ得ている者であれば、その道をあえて外れることができます。「無力さと悲しみ」の道から離れ、たとえば「希望」への道へと向かうことができます。

では、「フィクションの外部にいる者」とは誰か。それは「観客」です。

観客のいる現実世界と、舞台上の世界は、完全に隔たれたものではありません。なぜなら、女の子が客席に向かって話しかけているとき、その瞬間は確かに、《現在》という時間を共有しているからです。
彼女が話しているその間に、すべての時制が並び立つ舞台上の世界が、観客のいる現実世界に流れ込んでいます。

だから観客は舞台上の世界とは無関係ではないし、であるなら、この舞台が描こうとしている、「これから飛行機が落ちてきます」「これから死んでしまいます」と無力さと悲しみに打ちひしがれている登場人物たちとも無関係ではありません。
そしてこのフィクション(舞台作品)を通して、実際に58年前に宮森小学校で起きた事故との関係を結ぶことになります。

現在、わたしたちの声の届かない(でも聞こえているはずの)ところで沖縄の基地についての事柄が決定していっています。
もしかしてこの現実世界も、わたしたちの意志が届かない、決定論的な世界なんでしょうか。
わたしたちは、舞台の上の女の子たちみたいに、到来する未来を粛々と受け入れていくだけの存在なのでしょうか。
それはなんかちょっとヤダな、とわたしは思います。

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【ひまわり祭りでのダンス。伊波小公演を終えたからか、リラックスした姿が見えます】

作者であるわたしがこの作品に込めた願いは、観てくれた人に、《過去》と《未来》を取り込んだ《現在》を生きながら、そのうえで「選択」をしてほしい、ということです。
言い換えれば、もう死んでしまった人(過去)とまだ生まれていない人(未来)の存在を意識して、なにかを思考して欲しい、ということです。

過去に生きる人(死んでしまった人)は、確定した世界、つまり運命から逃れることはできません。
未来に生きる人(まだ生まれていない人)は、具体的な生を持たない故に何らの行為も遂行できません。
現在に生きる人だけが、なにかを選び、その意志をもとに行動することができます。

過去と未来の人たちに想いを馳せ、そのうえでなにかを選び取っていく。
それは現在を生きるわたしたちに与えられた能力であり、権利です。
その「選択」の能力(あるいは権利)をあっさりと手放すなんてことは、わたしはしたくないし、他の人にも、ぜったいしてほしくないです。

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【ひまわり祭りでは、お祭りのオープニングアクトをつとめました。地域に求められる団体でこれからもありたいと思います】