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劇中では、いくつかの小道具が用いられます。
それはたとえばフラフープであり、縄跳びであり、“ネジについてるやつ(ワッシャー)”です。
これらの小道具に共通するのは、つまりこれらの小道具でわたしが考えようとしているのは、その形状や用法や機能において表現されている「ループ」です。
それらが暗示するのは、はじまりも終わりもない事物(状態)、ずっと繰り返される事物(状態)、などです。
これは、歴史は繰り返される(また戦争が起きる、また事件が起きる)というネガティブな捉え方ができる一方で、ずっと平和な状態を保っていくという「希望」あるいは「意志」として捉えることもできます。
言い換えるならこのループは、登場人物たち(そしてわたしたち)を捕らえる檻のようであり、一方で登場人物たち(わたしたち)が自ら拵える船のようでもあります。
【フラフープで遊ぶ少女たち。形状から連想された「指輪をもらって幸せになる」という台詞が、これから死に向かう運命であるという事実をより残酷に強調します】
歴史、時代、伝統、社会、環境、、、。想定されるものはいろいろあって、これらはわたしたちの人生を規定し得るほどの強大な力を持つものですが、逆にわたしたちの振る舞いによって再構築されていくものでもあります。
このことをしっかりと自覚するということを、わたしたちはやっていかないといけないだろうと思います。
悲観的になって諦めるでもなく、自らの力を過信して驕ることもなく、です。
自らが大きなものによって規定されながらも、その力を有益な方向に向けることができる力を所持している、そんな可能性を信じたっていいんじゃないかとわたしは思っています。
【ひたすら回り続ける大縄と、そのループの中に入るのを躊躇し続ける少女。彼女の目には何が映るのか】
くわえて言うと、「言語」もそうだと思います。
言語によって(日本語か英語かなど)、あるいは話法によって(「ヤンキーの話法」「先生の話法」「経営者の話法」など)、ものの見方・考え方は影響を受けます。
でも逆に言えば、話法を自在に変えることができれば、視点の持ち方や思考法も多様なものになるということです。
この劇では、「女子小学生の話法」を“小道具”として使用しています。
これは、自分たちの普段の喋り方を台詞として再現するということで、演じている子どもたちにも「普段自分がしているような話法」を要請しています。
それによって、必然的に自分の言葉(&身振りなど)を客観視することができると思うのです。
【前に進んでいると思っていたら、いつのまにか同じ道を辿っている。そんな不気味さを、このだまし絵は孕んでいます】
そのような自覚は、自分が社会のなかでどのような立場であり、なにを求められているのか、逆にその要求から逃れる必要がある場合にはどのような話法(ふるまい)を身につければいいのか、そういったことを考えるための出発点になってくれるものだと思います。
ものを書く者の端くれとして、言語というものの可能性をわたしは信じているし、子どもたちにも、もっともっと言語の可能性(多様な話法の獲得など)を追求していってほしいと思っています。
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プロジェクトオーナー
兼島 拓也(石川ひまわりキッズシアター脚本・演出)